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佐々木健介選手参戦団体などのプロレス観戦記&雑記(サムネイルクリックで拡大)
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huzinzmi.jpg讀賣新聞日曜版 『不屈のひみつ』より

―リング復帰 妻が支えに―

・試合中、腰に激痛
腰から下に電気が走ったような痛み。忘れたくても忘れられない。
1989年6月、長野でのビッグバン・ベイダー戦。2連敗中の藤波
には、どうしても負けられない相手だった。試合中盤。体重180㌔の巨漢に投げられた瞬間、腰が悲鳴を上げた。その後の記憶は、ない。辛うじて勝利を手にしたが、ゴングが鳴った瞬間、立っていられなくなった。
「レスラーはケガには慣れっこ。しばらくすれば痛みも消えるだろうと、自己診断していたのですが…」
16歳で、プロレスの道へ。卓越したレスリングセンスで、スター選手への階段を駆け上がった。相手を羽交い絞めにしたまま後方に投げる「ドラゴン・スープレックス・ホールド」で相手を失神させた試合はファンに衝撃を与えた。
順風満帆のレスラー人生を突然襲った腰のアクシデント。師匠のアントニオ猪木は欠場中。メーンイベンターの責任を果たそうと、痛みをこらえてリングに上がり続けた。しかし、12日後、ついに歩くこともままならなくなった。
「あおむけにも、うつぶせになることができず、深呼吸するだけで激痛が走った。ソファに座って息を潜め、意識がもうろうとして眠くなるのを待つ。終わりのない痛みで気が変になり、マンションの窓から飛び降りようと思ったこともありました」
整形外科、鍼、整体――。知人からのうわさを頼りに、全国の病院を駆け回った。「早く復帰しなければ」との焦りから、次々と新しい治療法を試みた。病名は椎間板ヘルニア。選手生命を考え、腰にメスを入れるよりも、痛みに耐える道を選んだ。
「地獄のような日々の中、妻の言葉に救われました。『もっと自分に正直になったら。ありのままを見せたら楽だよ。サイボーグじゃないんだから』って。」

・心にゆとり
心にゆとりを持ち、治療法を絞った7か月後ころから、痛みも少しずつ消え、快方へと向かった。1年3か月間の闘病を乗り越え、90年9月に復帰。“奇跡の復帰”を遂げた藤波の背中に、万雷の拍手が送られた。
「体力を過信し、体を酷使したつけが一気に出た。多くの治療を試みたことも、治癒力を妨げたと思う。復帰できたのは、家族の支えとファンの声援のおかげです」
昨年5月、国内3500試合出場記録を達成。54歳になった今も、「燃えたぎる心はまだまだ健在」だ。K-1や総合格闘技に押され気味のプロレス人気の復興が、自分に課された使命と考えている。
「相撲部屋制度のように各団体が一堂に集まり、競う大会を年に数回開きたい。そうすれば、選手の質も上がり、内容の濃い試合をファンにみせられる。プロレスの火は、決して消しませんよ」

藤波辰爾「原点回帰」の3か条
【1.ネバー・ギブアップ】
レスラー人生の座右の銘。あきらめなければ、少しずつでも成功に近づき、やがて道は開ける。
【2.正直に生きる】父が身をもって教えてくれた生き方。自分にウソをついては、幸せになれない。
【3.面倒くさがらない】怠けたいとき、自分を戒めるために口ずさむ言葉。練習も興行も手を抜いたら絶対結果に表れる。
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ILLUSTRATION BY nyao